リテラリーマシン ハイパーテキスト原論

“ 世界が変わるたびに、価値観が変わる。
 私たちが世界の相当な部分を定義し直すたびに価値観の変化が起きる。それはずっと繰り返されてきたことだ。発見と呼べない発見や、目新しいだけの世界観の発明を通して。
 とはいえ、それにもかかわらず、私たちは今日現在の世界観こそが正しいのだと信じている。なぜなら同じことの繰り返しのなかから、一度にひとつの視点からしかものを見ることができないと悟ってしまったからだ。”
(リテラリーマシン―ハイパーテキスト原論 7ページより引用)

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enhcantMOONを勢いにまかせて予約してから、なぜかふとこの本のことを思い出して読んでみた。もはや本屋では手に入らず、ネットでも古本屋で倍以上の値段でしか手に入らないとは、時代は過ぎたものである。地元の図書館に行って、しかも自動書庫からの出庫をお願いしてなんとか借りることができた。

テッド・ネルソンのことも、ザナドゥのことも、知ったのはたしかWindows3.1の頃。当時からその人物像もプロジェクト像も極めて伝説的なイメージで、偉人伝のようにしか認識していなかったのだが、まだインターネットにすら触れられることがなかった当時は、この本を読んでもその目指しているものやその理屈なんかはほとんど理解できなかったのではないかと思う。そう実感するほどに、今この2013年に読むと本当に「しっくり」来るのである。各種の評判もさることながら、あとがきにまで「奇書」と書かれているような本なのだが、「ハイパーテキスト」「ハイパーメディア」を提唱したのが1965年、そしてこの本の原著が自費出版(!)されたのが1980年なのだから、とにかく新しすぎて、また途方もない夢のような世界であり過ぎた故に「奇書」「奇人」と評されたのではなかろうかと思う。

なぜなら、今この年に読んでも、まだまだ時代はこの本に追い付いていないのだから。

どんなに「奇」なる本と評されようとも、自分は、まさに「理想郷」と呼ぶべき文書空間がこの本では提唱されていると感じた。

全て文書が電子化され、バージョン管理可能な普遍的な電子出版システム。
相互参照可能で、さまざまな意味づけができ、文書のバージョンにも紐づいたハイパーリンク。
課金システムにも組み込まれ、ハイパーリンクを拡張した「引用」であるトランスクルージョン。
今でいうところの「クラウド」を彷彿とさせる分散文書管理システム。

ザナドゥ自体は現時点では確かに実現には程遠い状態であり、「コンピュータ史上もっとも長く続いているベーパーウェア」のように揶揄されていたりもするが、現代のWebや電子出版とその販売システム、文書を参照するためのタブレットやハードウェア、クラウド化された文書管理など、時代はとても遅い足取りながら、しかし確実に「ザナドゥ」に吸い寄せられているように思う。

本そのものは手に入らなくなっても、時代はその提唱した世界に確実に近付いているというのは、この「原論」がいかにとてつもない「原石」であるかの表れであるように感じてならない。

じっさい、仕事でさまざまな設計書やドキュメントをExcelなんかで書かされる毎日を送っていると、ザナドゥの世界はため息交じりに見る夢のまた夢のように思えてならないが、しかしそれでも、実現不可能な世界ではないし、コンピュータにおける文書はこの本で示されているように作成および管理されるべきであると思う。文書はバージョンで管理されるのが当然だし、ハイパーリンクはバージョンに紐づくべきだし、引用は、どんな部分でも自由に範囲指定し、それもバージョンに紐づいているべきである。また現在もリリースが継続されているアプリケーションであるMediaWikiは、限りなくその世界に近い機能が実装されており、それをベースに作られたWikipediaは、世界で最も成功しているハイパーテキストシステムであることは疑いの余地はない。

本当に全く手が届かない世界ではないし、見果てぬ夢でもないし、いずれは人類が到達できる世界が書かれていると思う。

そして、雑然とした文書ファイル群を目の前にする日々を送っている中でも、この本が目指すところを忘れることなく、日々自分のコンピューティング空間をよりよくする努力を怠ってはならないことを再認識した一冊だった。

夜のゆめこそまこと駆動マシン(2) – ぼくらは都市を愛していた

(1)はこちら

岸田秀の「唯幻論」は、ネット上で解説しているサイトがない。以下の書籍がそのバイブルである。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

不正確を承知の上で説明するならば、「唯幻論」とは、人間は本能が壊れてしまった動物であり、そのことから現実に適合するために本能の代わりとして幻想を必要としている、という考え方である。人間は他の動物違って、世に生まれでてから自分で生きて行けるようになるまで非常に多くの時間を必要とするため、しばらくの間は親によって提供される「人工的世界」で育つ。しかしその世界は、子どもにとっては全知全能、唯我独尊の世界であり、その世界を知った子どもの本能は、その人工的世界に合わせて成長し、実際の現実とはズレが生じてしまう。現実からズレたままの本能によって生きる場合、それは現実に対する不適合を意味し、肉体的にも一人前になったとしても、現実からズレて成長した本能を持つ「幻想我」は、常に現実とは合わず、抑圧を受ける事になる。そんな現実を幻想我にできる限り一致させようとするため、人々はさらなる幻想を必要として、現実我と幻想我を埋め合わせようと試みる。それ故、人は幻想を本能の代わりとして必要とし、人が住む世界は全て幻想であふれかえっていく。

このブログの副題にも載せている江戸川乱歩の

「現し世は夢、夜のゆめこそまこと」

とは、そんな現実と幻想のズレに対する抑圧感を言い表していると自分は思う。

この考え方で、都市や世界を見ると、ほとんどの事が幻想として腑に落ちることばかりになる。ましてや都市が「人間を1人で生かす事のできるメガマシン」であるとの言葉は、全てその唯幻論がそれを裏付けてくれるようなものである。

都市とはまさに幻想であり、人々の幻想を入出力として駆動するメガマシンに他ならない。この「ほぐらは都市を愛していた」に描かれる「都市」は、まさにSF小説の世界の話ではなく、自分たちが生きる都市そのものである。

人々が「幻想する」生活やライフスタイル、ステータス、空間は、振り返ってみると、極めて細部に至るまでの「作り込み」が必要である。所謂おしゃれな有名雑貨店に展示されているステキなリビングルームを見ると、人間を覆っているありとあらゆるものが、その孤の幻想を形成するためのモノとして存在している事がわかる。いとうせいこうの著作「ノーライフキング」で、ゲームの中のキャラクターが死ぬときに、自分が何者かを示すテキストを残すという機能があったが、そこに書かれていたものはズバリ「自分が好きなもの」。個人が何者であるかを示すのに「好きなもの」が書かれるというのは、まさに自分自身が幻想によって形成されているようなモノだと実感できる。「毎日好きなモノに囲まれていたい」というのが、その有名雑貨店に対して人々が求め、そして店側が提供するものであることから、お店は全て幻想を売り物にしているようなものだ。そして、その売り物は、やはり幻想を形成できるだけの幻想耐久性が必要不可欠であり、極めて精密に作り込まれたモノでなければならない。

そのように極めて精巧にモノを作り込むためには、やはり「都市」の能力が欠かせない。都市こそが、そのリビングルームに必要なモノやそれを作るための材料やマンパワーをそろえることができ、さらにはそれらの維持環境システムを用意し、リビングルームを駆動してくれるのである。「ぼくらは都市を愛していた」で描かれる「メガマシン」という言葉は、その背後に、膨大な私達の生存空間の構成基盤を見通すことができる一言であると思った。

かたや無人となった都市で調査活動を行う女軍人・綾田ミウと、かたや生々しい人の幻想を享受し、甘い生活に浸る公安警察所属の男・綾田カイムの不思議な時間軸の交錯は、いつしかそれが融合していくことになってゆく。そして、その先に見えるのものは、人々を必要とする都市の姿であった。

神林長平の作品である戦闘妖精・雪風シリーズの「グッドラック―戦闘妖精・雪風」では、一時的に自分で勝手に戦争を行った戦闘機械が、あることから人間を必要とするようになり、機械と人がお互いを必要とし合うようになる話が描かれていように記憶しているが、まさにこの作品も、より自分たちに近い現実感覚で同じ構図が見えて来たように思う。人を生かすためのメガマシンとしの都市が、人々を必要とする。正確に言えば、人々の活動、人々の動く幻想そのものを必要とする都市の姿がそこにはあった。都市自身はいわばハードウェアとしてのマシンのような存在で、人々とその幻想、幻想によって駆動される事象がソフトウェアのような構造である。それらは相互依存であり、相互としての活動がお互いを生き延びさせ、そこに在り続けられるようになる。それをもっと俯瞰した目でとらえれば、その相互依存の姿は、やはり一つの巨大な生き物のような何かにも見えるし、また巨大な生命システム系のような何かにも見えてくる。

そう。都市も人間も、すべては生き抜くために、お互いを必要としているのだ。

「僕らは都市を愛していた」では、都市が人々を「独りでも生きられる」ようにしたと語っているが、しかしながら、結局の所は「自らの幻想」から離れては生きられない事を改めて証明しているようなものであると思った。幻想を駆動するマシンととも相互依存に生きていくシステム。私達はその中で、なんとか現実とやりくりしながら、日々生き続けているのだ。「人々は土から離れては生きられないのよ(天空の城ラピュタ)」との言葉はそのまま、「幻想から離れては生きられないのよ」とここでは言っておきたい。

物語の最後は、希望で締めくくられる。
「情報震」によって失われた世界は、これからまた新たな都市を作り出すのか。また、その都市はいったいどんな形態で生まれてくるのか。

デジタルデータがなくなることがないこの世界もまた、今のこの世がどんな形態になっていくのかということを、そこに重ね合わせて考えて始めると、本当に興味が尽きない。

今後の神林長平の作品は、ますます目が離せないと改めて思った。

 

夜のゆめこそまこと駆動マシン(1) – ぼくらは都市を愛していた

久しぶりの神林長平を読んだ。「アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風」以来になる。自分の神林長平歴は、初めて小説を読むようになって発見した「敵は海賊・海賊版」にさかのぼるが、読んだ本はそれほど多くはない。でも、自分にとっては精神的な一つの独標のような存在で、何か思うところがあるたびに、無性にそこからの眺めを見たくなる時がある。

初めて読んだ頃から、神林長平の作品の中に出てくるコンピューターネットワーク社会を遠い空想の世界のように思って眺めていたのだが、かなり社会が追いついて来たように思う。例えば、最近Kindle Paperwhiteを買ったのだが、あの小さな読書端末から直接本を購入し、クラウド経由で書籍がダウンロードされる様なんかはまさに「言壷」を彷彿とさせる世界であろう。現在は本からのスキャンデータで電子書籍化を行うことがほとんどであると思うが、今後は、「言壷」に出てくる万能著述支援用マシン“ワーカム”のような、出版クラウドネットワークに直結した電子書籍エディタが登場する事は明らかであろう。そして、そのことは、当の作者である神林長平自身も実感しているのではなかろうか。本作「ぼくらは都市を愛していた」は、さらにその先を見渡す新たな独標のような存在である。

話の下りを書くには、この作品の世界に登場する「情報震」について語らねばならない。「情報震」とは、デジタルデータのみが破壊される現象のことで、原因不明の自然現象であると考えられている。発生原因やそのメカニズムなどはいっさい不明。とにかくただ発生すると一切のデジタルデータが破壊され、全ての電子機器が停止するという代物である。「敵は海賊」シリーズを読んでいる方なら、これが「対コンピューター・フリゲート艦 ラジェンドラ」の電子機器のみに作用する破壊兵器「CDSビーム」を彷彿とさせることに気づくだろう。舞台は、このような情報震に襲われて大半のデジタル機器が機能しなくなってしまった後の世界。当初は何らかのテロと考えられてた「情報震」によって大規模な戦争が起こったのち、情報震対策のため無人となった東京が中心に描かれる。ストーリーは、その東京で「情報震」の観測を行う日本情報軍・第七先進観測軍団・第三◯三機動観測隊・第三小隊隊長・綾田ミウ中尉の日誌と、おそらくまだ無事だったであろう頃の東京で生活する弟・カイムの時間軸が交互に進んで行く。

二つの時間軸は、ズレているにしてもやや不自然な重なり合い方でストーリーとともに進んで行く。情報震対策が施された「情報戦車」なるハッキング技術の塊のような兵器に搭乗する綾田ミウ中尉は、電子機器のシェルターとされ、無人とされた「トウキョウシェルター」で情報震の調査を必死に行うが、状況はどんどん追いつめられ、小隊は孤立していく。せいぜい「何が何でも生き残れ」という、部隊に科せられた最後の命令を守るので精一杯となる。

かたや、まだ情報震に襲われる前の「東京」で生きる弟・カイムは、勤務する公安警察の仕事で試験的に身につけた「体感通信」という、脳の思考だけで通信が可能になるデバイスを使用し、ある殺人事件を捜査していく。「体感通信」は、全ての思考が同じように体感通信デバイスを身につけた人物に送信されてしまう代物で、デバイスを身につけた人同士はほぼ無言のまま会話が可能となる。そのデバイスを身につけてから、弟カイムは、周囲に振りまかれてしまう事を承知で、昔、援助交際で知り合った女子高生との情事の思い出にふけっていく。

何度となく描かれる綾田カイムの援助交際の思い出は、きわめて生々しい。しかしそれ故に、カイムにとっての心の拠り所である「脳内空間」として、その存在が時間とともに深みを増して行く。女子高生と銀座で待ち合わせ、雑居ピル群の狭間にあるシティホテルで情事を重ねて行く様は、本当に都市で生きる<孤>としての人々そのものが見えるように感じられた。それは、幻想の駆動である。女子高生が抱く幻想と、それを買う男が抱く幻想。それが駆動する事で情事が発生する。それを可能とするのは、通信基盤や交通基盤、そしてホテルのような場の基盤があってこそであり、まぎれもなく都市のみが可能とする時空間である。都市は、その幻想や観念の入出力を受ける駆動装置として機能する。その情事においては当然ながら何も生産される事はないが、結果として、孤の中の精神的なエネルギーのみが育まれることになる。そしてそのエネルギーはさらに人を動かし、幻想を求め、そして都市は駆動されてゆく。
文中にもそれが語られている。

「(引用) 千三百万人の人間を、各各<独り>で生かすことができる能力を持っている、マシン。都市とは、総合的人工環境システムを実現している、巨大機械/メガマシンだ。そのような機械が、動物であるヒトの常識=<独りでは生きられない>に対抗できる力を<個人>に与えたのだ、わたしのような、娘のような、者たちに。」

ここまで考えて行くと、やはり1人の人物とその思想を引き合いに出さなくてはならない。

そう。岸田秀の「唯幻論」だ。

(長いので次のエントリへ続く)