夜のゆめこそまこと駆動マシン(2) – ぼくらは都市を愛していた

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岸田秀の「唯幻論」は、ネット上で解説しているサイトがない。以下の書籍がそのバイブルである。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

不正確を承知の上で説明するならば、「唯幻論」とは、人間は本能が壊れてしまった動物であり、そのことから現実に適合するために本能の代わりとして幻想を必要としている、という考え方である。人間は他の動物違って、世に生まれでてから自分で生きて行けるようになるまで非常に多くの時間を必要とするため、しばらくの間は親によって提供される「人工的世界」で育つ。しかしその世界は、子どもにとっては全知全能、唯我独尊の世界であり、その世界を知った子どもの本能は、その人工的世界に合わせて成長し、実際の現実とはズレが生じてしまう。現実からズレたままの本能によって生きる場合、それは現実に対する不適合を意味し、肉体的にも一人前になったとしても、現実からズレて成長した本能を持つ「幻想我」は、常に現実とは合わず、抑圧を受ける事になる。そんな現実を幻想我にできる限り一致させようとするため、人々はさらなる幻想を必要として、現実我と幻想我を埋め合わせようと試みる。それ故、人は幻想を本能の代わりとして必要とし、人が住む世界は全て幻想であふれかえっていく。

このブログの副題にも載せている江戸川乱歩の

「現し世は夢、夜のゆめこそまこと」

とは、そんな現実と幻想のズレに対する抑圧感を言い表していると自分は思う。

この考え方で、都市や世界を見ると、ほとんどの事が幻想として腑に落ちることばかりになる。ましてや都市が「人間を1人で生かす事のできるメガマシン」であるとの言葉は、全てその唯幻論がそれを裏付けてくれるようなものである。

都市とはまさに幻想であり、人々の幻想を入出力として駆動するメガマシンに他ならない。この「ほぐらは都市を愛していた」に描かれる「都市」は、まさにSF小説の世界の話ではなく、自分たちが生きる都市そのものである。

人々が「幻想する」生活やライフスタイル、ステータス、空間は、振り返ってみると、極めて細部に至るまでの「作り込み」が必要である。所謂おしゃれな有名雑貨店に展示されているステキなリビングルームを見ると、人間を覆っているありとあらゆるものが、その孤の幻想を形成するためのモノとして存在している事がわかる。いとうせいこうの著作「ノーライフキング」で、ゲームの中のキャラクターが死ぬときに、自分が何者かを示すテキストを残すという機能があったが、そこに書かれていたものはズバリ「自分が好きなもの」。個人が何者であるかを示すのに「好きなもの」が書かれるというのは、まさに自分自身が幻想によって形成されているようなモノだと実感できる。「毎日好きなモノに囲まれていたい」というのが、その有名雑貨店に対して人々が求め、そして店側が提供するものであることから、お店は全て幻想を売り物にしているようなものだ。そして、その売り物は、やはり幻想を形成できるだけの幻想耐久性が必要不可欠であり、極めて精密に作り込まれたモノでなければならない。

そのように極めて精巧にモノを作り込むためには、やはり「都市」の能力が欠かせない。都市こそが、そのリビングルームに必要なモノやそれを作るための材料やマンパワーをそろえることができ、さらにはそれらの維持環境システムを用意し、リビングルームを駆動してくれるのである。「ぼくらは都市を愛していた」で描かれる「メガマシン」という言葉は、その背後に、膨大な私達の生存空間の構成基盤を見通すことができる一言であると思った。

かたや無人となった都市で調査活動を行う女軍人・綾田ミウと、かたや生々しい人の幻想を享受し、甘い生活に浸る公安警察所属の男・綾田カイムの不思議な時間軸の交錯は、いつしかそれが融合していくことになってゆく。そして、その先に見えるのものは、人々を必要とする都市の姿であった。

神林長平の作品である戦闘妖精・雪風シリーズの「グッドラック―戦闘妖精・雪風」では、一時的に自分で勝手に戦争を行った戦闘機械が、あることから人間を必要とするようになり、機械と人がお互いを必要とし合うようになる話が描かれていように記憶しているが、まさにこの作品も、より自分たちに近い現実感覚で同じ構図が見えて来たように思う。人を生かすためのメガマシンとしの都市が、人々を必要とする。正確に言えば、人々の活動、人々の動く幻想そのものを必要とする都市の姿がそこにはあった。都市自身はいわばハードウェアとしてのマシンのような存在で、人々とその幻想、幻想によって駆動される事象がソフトウェアのような構造である。それらは相互依存であり、相互としての活動がお互いを生き延びさせ、そこに在り続けられるようになる。それをもっと俯瞰した目でとらえれば、その相互依存の姿は、やはり一つの巨大な生き物のような何かにも見えるし、また巨大な生命システム系のような何かにも見えてくる。

そう。都市も人間も、すべては生き抜くために、お互いを必要としているのだ。

「僕らは都市を愛していた」では、都市が人々を「独りでも生きられる」ようにしたと語っているが、しかしながら、結局の所は「自らの幻想」から離れては生きられない事を改めて証明しているようなものであると思った。幻想を駆動するマシンととも相互依存に生きていくシステム。私達はその中で、なんとか現実とやりくりしながら、日々生き続けているのだ。「人々は土から離れては生きられないのよ(天空の城ラピュタ)」との言葉はそのまま、「幻想から離れては生きられないのよ」とここでは言っておきたい。

物語の最後は、希望で締めくくられる。
「情報震」によって失われた世界は、これからまた新たな都市を作り出すのか。また、その都市はいったいどんな形態で生まれてくるのか。

デジタルデータがなくなることがないこの世界もまた、今のこの世がどんな形態になっていくのかということを、そこに重ね合わせて考えて始めると、本当に興味が尽きない。

今後の神林長平の作品は、ますます目が離せないと改めて思った。

 

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